加川良「教訓」を久しぶりに聞いて思ったことを書く。書きたい。1971年6月に発売された加川良のファーストアルバムである。僕はたぶんその年の秋頃にレコードを買っている。高校1年だった。当時「70年代フォーク」と呼ばれる先頭に立っていたのは岡林信康だった。しかし、岡林は69年「下痢を治しに行ってきます」との書き置きをして蒸発している。70年に再登場する。この時ハッピーエンドをバックにロック調に様変わり。しかし、翌71年第三回中津川フォークジャンボリーを最後に表舞台から姿を消し農耕生活に入る。73年に「26番目の秋」などを出す。僕個人はこの時期の岡林の歌が好きであるが、もう「フォークの神様」は「普通の人」となっていた。その後、演歌、美空ひばり、エンヤトットなどを経て今に至る、岡林、御年76才である(1946年7月22日滋賀県生まれ。吉田拓郎が岡林よりも3か月ほど先に生まれている。そして1年後加川も滋賀県生まれ)。
加川良を書くにあたって、僕的には岡林信康と吉田拓郎に触れておく必要があるわけなんよ。1970年6月「イメージの詩/マークⅡ」でデビューした吉田拓郎。僕は深夜放送で聴いた「マークⅡ」が好きになっていたが、アルバム「青春の詩」(1970年)を買うのは1971年夏だった。で、拓郎が世間に注目されたのは第三回中津川フォークジャンボリー(岡林が蒸発する最後の野外コンサート)である。そのサブステージで六文銭をバックに延々と「人間なんて」を唄ったことが拓郎が世に名前を「売った」最初だったと僕は記憶している。(あくまで僕個人のイメージ記憶である)で、何が言いたいかというと、加川良が世間に注目されたのは、1970年の第二回中津川フォークジャンボリーで飛び入りで歌った「教訓Ⅰ」で注目を浴びるのである。蛇足だが吉田拓郎と加川良の関係で最も世間に知られているのは、1972年拓郎のアルバム「元気です。」に収録されていた「加川良の手紙」じゃないだろうか。あれはたしか作詞加川良となっていたと思う。
つまり何が言いたいかをはっきりするね。「70年代フォーク」と呼ばれるそのはじまりの時期に岡林信康ももちろんいたが、世間的に大きく注目されていたのは加川良と吉田拓郎だったということである。高石ともやや加藤和彦や高田渡などの大物たちもずらりといたが、やはり社会現象的(音楽業界的に)、僕の個人的感覚で言えば加川良と吉田拓郎である。そしてこの二人の生き方もその後大きく分かれていくのであるが、分かれたと捉えるのは僕ら聴視者であって、本人たちは「自分」を生きていただけだと思う。僕はこの二人のレコードやCDを買い集め聞いてきたファンである。そのファンである僕が、いま、加川良「教訓」から受けた影響の大きさについて書こうとしているのである。
まだ前置きがつづく。加川良(かがわりょう)。本名小斎義弘(こさいよしひろ)。1947年11月21日滋賀県生まれ。2017年4月5日69才没。71年「教訓」72年「親愛なるQに捧ぐ」73年「やぁ。」74年「アウトオブマインド」76年「南行きハイウェイ」78年「駒沢あたりで」ここまではきっちり買って、きっちり聴いてきた。福岡に加川が来たらライブにも行っていた。80年代になると「プロポーズ」(1981年)を買っただけだ。90年代になって「ONE」「2」「ROCK」「USED]と買ったが繰り返し聴くには至らなかった。僕の中では1978年の「駒沢あたりで」のアルバムで加川良はおわっていたのかもしれない。さて、いよいよ本題のアルバム「教訓」と僕の話に入ろうと思う。
やっと本題にはいる。アルバム「教訓」のなかに収録された12曲の中から、いかに僕が大きな影響を受けてきたかを、今回「教訓」を聞き返すなかで感じたので、感じたことを素直に書きたい。16才のとき聞いた歌(歌詞)がどれほど、どのようにその後に影響してきたか。自分でも驚くほど、歌に忠実な半世紀を生きてきたと思った次第である。まず、「教訓Ⅰ」からはじめる。まずは僕の幼少期に抱いた感覚をもとにしないと語れない。幼少時代に憧れた人は月光仮面であり白馬童子でありナショナルキッドであり七色仮面でありハリマオでありいわゆる「強さ」をもった「勇気」あるヒーローだった。小学生になると、さすがに「尊敬する人は月光仮面です」とは言いにくく、横綱大鵬、長嶋茂雄、織田信長、シュバイツアーとテレビで観たり本で読んだ有名人になっていった。0才から15才くらいまでの間に脳に自然に刻まれた価値観のようなものは、今から思うと「正義」とか「強さ」だったと思う。「美しさ」とか「やさしさ」なんてのは価値がないに等しかった。
16才の時聞いた「教訓Ⅰ」は今までの自分の価値観とは真逆なものだった。ヒーローたちはみんな、一般庶民のため命がけで悪と戦う人だった。国民のため御国のために戦うことが正しいことだと思っていた。ところが「教訓Ⅰ」は御国を皮肉っているのである。真剣に真面目に皮肉るのである。命は一つ人生は一回だから命を捨てないようにねあわてるとついフラフラと御国のためなのと言われるとネ 御国は俺たち死んだとてずっと後まで残りますヨネ、と。第二次世界大戦(大東和戦争)を思うと確かにそうかもしれないと16才の少年は考えこむわけであった。さらに加川良は唄う。青くなってしりごみなさいにげなさいかくれなさい、と。かくれんぼでは逃げたり隠れたりするが、生き方としては「にげる」「かくれる」は卑怯なんじゃないかと16才の少年は沈思黙考するわけである。弱虫の生き方の方が正しいと聞こえてくるのである。命をすてて男になれと、言われた時にはふるえましょうよね、そうよ私しゃ、女で結構、女のくさったのでかまいませんよ、と言い切るのである。泣いていたら母親から「女みたいにメソメソ泣くな!」と叱られて育った僕にとって、「女のくさったのでかまいませんよ」は画期的なメッセージだった。
後に「反戦」という言葉を多用する時期になるのだが、この頃はまだ「反戦歌」という思想用語ではなく音楽用語として体内に入ってきた。僕は20代半ばから「反戦、反核、反差別」という言葉を自分の胸に刻んで生きようと決めた。この「反」という思想、生き方のスタートは、加川良の「教訓Ⅰ」からだったんだと今はわかる。やがて、30代半ばで「反何々」の生き方では「平和」とか「しあわせ」へは向かわない、敵対関係を増幅させるだけだと思い、宮沢賢治的な生き方を真似しようと思った。それにしても「教訓Ⅰ」はいろんな問題提起を個人に向けて放った流行歌だった。たかだか23才の若者=加川良が唄った歌にすぎないのだが、歌っていうのは生き物だと思う。歌詞(ことば)にも波動が入っているから、確実に相手に届くのである。死んで神様と言われるよりも、生きてバカだと言われましょうヨネ、きれいごとならべられた時も、この命を捨てないようにネ。この「バカだと言われましょうヨネ」は心のど真ん中にグサッと突き刺さってきた。おりこうさんになること、勉強をして成績を上げることが正しいと祖母と母に教え込まれてきていた僕にはセンセーショナルな歌詞だったんだと思う。高校生になった頃から成績は下がっていたが、この「バカだと言われましょうヨネ」でその下がり方は勢いを増した。たぶん、直感的に「ことば」のもつエネルギーを強く感じていたことだけは確かだ。祖母は亡くなっていたが、母には内緒で「バカになる」方向へと舵をきったのが、この「教訓Ⅰ」からだったのかもしれないと、今、思っているわけである。
「御国」よりも個人の「命」が大切、国家や天皇陛下よりも自分そのものが大切、「死」よりも「生きる」ことが大切だと「教訓Ⅰ」は僕に訴えかけてきたのである。右も左も、右翼も左翼もわからない16才の少年は、この時、左に傾きはじめたことに気づいてはいなかった。戦後のどさくさのなかでGHQが日本を変えようとした戦後教育のなかにスッポリ入っていったのもこの歌からかもしれない。なんとなく感覚的に右翼よりも左翼のほうが肌に合うとか、保守よりも革新のほうが僕的には好きだとか思い始めたのも「教訓Ⅰ」からだったのかもしれない。しかし、現在2023年。思うことは少し変化している。いや、僕の中で何かが変化している。「この国、なんかおかしくないか?」そんな感じがしてならない。お米をつくることを政府は応援しないで、コオロギを食べさせようと頑張りはじめた。おかしくないか?土地も企業もたくさんの外国人に買われているのに見て見ぬふり。おかしくないか?ほとんどの外国ではマスクはしなくなっているのに忠実にマスクをしている我々。おかしくないか?
加川良が亡くなって、もうすぐ6回忌がくる。天国の加川良よ、そちらから、今、この国はどう見えているの?なんかおかしくないか?