好きなこといろいろ

センターシネマの思い出

センターシネマ

福岡スポーツセンターと東洋ショー劇場の間にセンターシネマという映画館はあったと思う。1974年4月に福岡で暮らしはじめた僕は、当時たしか300円だったセンターシネマにいって映画を観るようになった。と、言ってもそんな映画ファンでもないし、時間つぶし的な映画鑑賞だった。センターシネマが好きになったのは、1本の映画を観たらそれでおしまいという点だった。それまでの映画館での上映は2本とか3本が同時上映されていたと思う。観たくもない映画をせっかくお金を払っているんだからと、2本も3本も観ていると、お尻も腰も痛くなり、それが嫌だった。センターシネマは1本観たらおしまいというのがよかった。当時の僕の記憶だけど、センターシネマで上映されてるのは新作映画ではなくて旧作の映画ばかりだったような気がする。日曜洋画劇場で「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」の淀川長治が紹介する映画だけで育ってきた僕はそれほど熱心に映画を観てきたわけではない。センターシネマで観た映画の思い出を書くつもりでいるが、その前に僕のわずかな映画体験を書いてみた。

山代座

幼少時代から始まる。佐賀県伊万里市山代町楠久津で生まれ育った僕は、4才か5才頃から、楠久村にあった山代座という真っ黒な劇場で映画を観ていた。祖母が映画好きだったのかどうか話した記憶はないが、近所のミエコ姉ちゃんや佐代子おばちゃんと一緒によく山代座に行っていた。その時僕も連れていかれてたのだ。美空ひばりや中村錦之助などが出演する時代劇が多かった。真っ暗い映画館から昼間の明るさに出る瞬間が好きだった。なんか解放された感覚だった。山代座から出ると真っ暗な夜だったこともある。佐賀銀行の前に溝があってそこに落ちそうになった記憶がある。小学校になってからは学校なのか地域の子供会主催なのか忘れたが、みんなで「キングコング対ゴジラ」(1962年)なんかを観た記憶がある。「モスラ」(1961年)も山代座で観たと思う。高校生になってからは伊万里にあった映画館にいくようになった。銀映という名前の映画館だったと思う。ほかにもあったが忘れた。「続猿の惑星」や「夕陽のガンマン」を観たのが銀映だったような記憶があるが記憶が曖昧である。はっきりしているのは関根恵子の映画(「高校生ブルース」「おさな妻」)を観たことは確かだ。彼女の下着姿、ヌードが頭に焼き付いてしばらく離れなかった。高橋恵子になった今も僕の中では関根恵子のままである。僕より3か月早く生まれで、学年では一つ上級生になる。

映画「ジェレミー」

センターシネマので観た映画にもどろう。実はにっかつロマンポルノをかなりの数観ているんだが、それを書き出したら長くなる。(舞台が西新、中洲川端、武蔵溝ノ口と広くなるからまた別の機会に書くことにする)いろいろ映画を観てきたが、あまり覚えていないんだ。はっきり記憶しているのは「ジェレミー」(1973年作品)だ。15才の少年と少女の普通の恋愛映画で、確か飛行場で別れるだけの映画だったのだが、なぜか当時の僕には泣けて泣けて涙がとまらなくなった記憶がある。で、当時のセンターシネマは1度上映が終わって館内が明るくなって客が出て行ったあと、掃除の方が入ってきて忘れ物はないかを確かめながら簡単な掃除をされた後、再び館内は暗くなり次回の映画紹介があり本編が始まった。入れ替えとかはなくて、何度でも鑑賞できたのである。僕はお尻が痛くなるから二度続けて観るタイプではなかったが、「ジェレミー」の時だけは泣いた顔を見られたくなくて、二度目まで観てしまった結果再び泣いて泣いて泣いて涙がとまらなくなり、結果三度「ジェレミー」を観たから忘れられないだけなんだと思う。

まとめ。

これまで観てきた映画で心に残っているのは、洋画なら「冒険者たち」(1967)「大脱走」(1963)「夕陽のガンマン」(1965)「ダイハード」(1988)「スピード」(1994)「マディソン郡の橋」(1995)「ゴースト」(1990)「アウトオンアリム」(1987)「フェノミナン」(1996)くらいかな。邦画は「砂の器」(1974)「男はつらいよ」(1969)「海街diary」(2015)「君の膵臓をたべたい」(2017)「ミックス。」(2017)「土を喰らう12ヵ月」(2022)ということにしておく。

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コックン

2014年12月(当時59歳)に近場の低山歩きを始めた。 これから山歩き(登山)をはじめようと思っている方や福岡県内の里山や無名山に興味関心がある方々向けて情報発信したいと考えている。 福岡県の低山・里山・無名山以外にも駅舎や神社、コミュニティーバスなども好きである。

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