で、何を考えたか?
左脚が使えないことがわかって考えたことは119番に連絡して救助してもらおう!だった。
城ノ越山遭難の時もそうだったようにあきらめだけは早い。
しかしこんな場所まで救助にきてもらうのは申し訳ない。。
少しでも探してもらいやすい場所、救助を待つのに安全な場所まで移動しようと考えた。
椎原峠(西)までおりよう!と決めたと活動日記には書いている。
芍薬甘草湯を飲んだあと、左ふくらはぎに熱さまシート2枚を貼り、タオルできつく縛っている。
マムシの岩場にビビる余裕もなかった。
ただ今思うと、よくもこんな岩場をあの脚でおりてきたものだと思う。
火事場の馬鹿力というか火事場の糞力というか、究極の集中力を発揮した場面だった。
目的の椎原峠までおりてきて一息ついた。
119番に電話してここなら位置もわかりやすいだろうと考えた。
しかし電話をかけていない。
事故現場から椎原峠まで移動できたことがかなりうれしかったからかもしれない。
「車道まで歩いて救急車を呼べばいいんじゃないか・・・」
そうひらめいた。
あのオレンジ色制服のレスキュー隊員の手をわずらわせずにすむ。
(城ノ越山遭難事故のようなことの再現を拒む心理が働いていた)
どちらにせよ迷惑をかけることは同じなのだがそういうことを考えた。
背振山まで5.5キの5.5キロは途方もなく遠くに感じたことを記憶している。
とにかく車道まで歩こう!そう決めて移動をはじめた。
このあと「背振山4.5キロ」「背振山3.5キロ」が励ましてくれたことは事実だ。
右脚とストック2本と声かけ
ちなみにこの時の移動する姿は。
ストック2本を少し前に突き刺し、右脚を少し前に出す。
左脚(足)は引きずるだけだ。
「右、左!右、左!右、左!右、左!右、左!右、左!・・・」
この時の「左」は、引きずるといっても、太ももあたりから前に押し出す感じなのだ。
「右脚、がんばれ!がんばれ右脚!」
ただ前進する!こんなに純粋な時間はなかったと活動記録に書いている。
ストック2本への依存度が高い歩行なので両
肩がものすごく疲れる。
とにかく休憩したら、また声を出しながら歩いた。
声は気合のようなエネルギーをもっているから大事だった。
ところが雨が降り出してきた。
かなり強い雨が。
試練のような雨に思えた。(ザックをおろしてカバーをつけている)
不思議と恐怖感も不安感もなかった。
濡れた笹の道を歩きながら何かを考えていたか?感じていたか?
「スラムダンク」の桜木花道が負傷したあとの姿を思っていた。
「明日のジョー」、矢吹丈の最終回を思い出していた。
それから「野生の証明」の高倉健を自分に重ねていた。
三足歩行(2本ストックと右脚)にもだんだんなんれてきてスピードが出てくるのを感じた。
未来は明るくなってきていた。
しかしすぐ次の試練がきた。
背振山系に詳しい方ならわかると思うが、この白いザレ場である。
※ ザレ場とは細かな石や砂が広がっている場所のこと。
細かな砂石が滑るから一番怖かった。
ここで力尽きそうになって座り込んだ。
水分補給しながら考えたことは、
「119番に電話して救助してもらうのはいいけど、ここは佐賀県じゃないか?もし佐賀県ならば佐賀県の病院に搬送されるに決まってる」
「やばいなあ!佐賀県の病院から妻に電話してきてもらうにしても、背振の駐車場にとめている車はどうするんだ!」
「タクシーで行くしかないだろ!」
あれこれ考えてもしかたがない。
先に進もうと考えた。
白い小石のザレ場は這って進んだ。
このあたりからは救急車も救助依頼も消えていたように思う。
歓喜の生還、5.7キロの旅
「骨折」と「捻挫」は経験があったが「肉離れ」の経験はなかった。
事故現場で「肉離れ」とい自己診断をしたようである。
「佐賀県の病院に搬送されると事態がややこしくなる」という思いが、結果的には背振山航空自衛隊横駐車場までの歓喜の生還を果たすことになる。
2017年7月19日(水曜日)。
午後1時50分、背振山航空自衛隊横駐車場に着いた。
もちろん、駐車場からほそかわ整形外科へ向かった。
全治1か月間と診断された。
(おしまい)
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