山でのあいさつは不思議
山歩きをはじめて気づいたことだが、山歩きの「挨拶」は実に不思議でおもしろい。(僕だけかもしれないが)
山道ですれちがう人とは「こんにちは」と気軽に挨拶をするのに、下山口(登山口)を出た瞬間、挨拶をしなくなる。
なんだろう?
あの山で出逢う人への不思議な親近感は?
今はコロナで声を発しての挨拶もひかえめで、マスクしてる人もおおいが、それでも山には独特な「何か」があるのは確かだ。
山で出逢った人と歩いた体験
特に何か危険な体験があったことではないが、山で出逢った人と歩いた体験について記録する。
山で出逢った人と行動した体験が二度ある。
この行動にも危険があることを検証する。
出逢った人に問題があるのではなく、自分自身の内面に油断が生ずるという意味での危険である。
参考にならないかもしれないが自分の体験を書いておく。
許斐山(このみやま)
2015年3月。低山歩きをはじめて4か月。2度目の許斐山だった。
この「2度目」という妙な余裕が心にスキを生むのかもしれない。
山頂で声をかけられた。
同年代の女性だった。
どんな言葉だったか憶えていないが、ピストンで駐車場まで戻るよりか、別の道で周回できますよという甘い誘惑だった。
ピストンも周回という言葉も知らない時期だし、低山歩きをはじめて4か月目はまだ登山靴だって持っていなかった。
そんな時に、「別の道を案内しましょうか」なんて言葉が、どれほど魅力的響きで脳を支配するか。
「わかるわかる」とうなずいてくれる人もいるはずだ。
その女性の後ろをついていくことにした。
かなり遠回りの周回コースだったが、すごく気持ちよかった。
山歩きをソロでなく、「誰か」と歩くのが初めてだったことと、緊張感なくその女性の後ろをついていくだけだったからだと思う。
山で出逢った人と歩く危険の検証
何も起きずに無事に駐車場につたから「いい思い出」で流してしまってもいいのだが。
出逢った人の後ろをついていくという行為にリスクが潜んでいるように思うのだ。
実は、その山(ここでは許斐山)に詳しい人、あるいは地元の人、登山のベテラン的な人に出逢った場合、僕の心理に問題が生じるのである。
「ひとまかせ」という問題である。
後ろをついていくという行為が「ひとまかせ」行為である。
これが難易度の高い山だったり、初めての山だったり、地図が読めない場合を考えたら、さまざまな遭難事故の種を含んでいるということである。
もしこのように道案内してくれる人と出逢ったならば、逆に、読図の勉強の機会にするといい。
現在位置の確認をしたり、どの方向に進んでいるのかを確かめるチャンスにするのだ。(なかなかできないと思う)
ソロでは頼るのは自分だけだから、初めての山、初めてのルートには常に緊張感があるが。
誰かと一緒だと、途端にその緊張から開放され油断が生じる。
案内してくれた女性は「やまつばさ温泉」にはいって帰ると言われ、やまつばさ温泉の駐車場近くで別れた。
なんでもない単なる山での出逢いにも「遭難の可能性」が潜んでいることを認識できるようになったのは、こうして小さな山での体験を積み重ねてきたからだ。
四王司山(しおうじやま)
山口県の勝山三山の四王司山では登山口で声をかけられた。
毎朝、四王司山を歩くのが日課だという75才の男性だった。
「先にどうぞ」と言ったが、その方は僕を先に歩かせて話をしたい風だった。
「地元の人が地元の山の話をよそ者にしたい」というのはどこにいってもあるようだ。
今の僕だって城ノ越山ではじめて歩く人に声かけられたら、あることないこと自慢しそうな気がする。
話はもどる。
75才の男性は毎日の日課で四王司山を歩くということで、もはやソロでの緊張感から開放され、油断だらけスキだらけになったことがある。
山で出逢うことを否定しているわけではない。
山歩きを他者に依存することがリスクをうむということを認識するかしないかで、遭難事故を避けることができるということを考えている次第である。