友人夫婦はとにかく歩き始めた
自分が低山歩きを始めたときも嬉しかったが、友人がそれも夫婦で低山歩きをはじめたことはすごく嬉しい。
嬉しいときは「嬉しい」と言葉にすればいいし、文章にすればいい。
要は簡単だ。
山を決めて歩くことだ。夫婦は二人だからソロよりも心強くて、二人の思い出になるから楽しさも二倍なのかもしれない。
低山歩きをなめるな!
友人夫婦は登山靴を買い、登山用の衣類や手袋、ストックなども買った。
友人はラグビーをしたり、夫婦はテニスという共通趣味をもっているスポーツマンだが、低山歩きをなめてはいない。
そばで見ていて楽しみながらも低山歩きを軽んじた雰囲気はない。
山歩きにも、その人の人間性というか人柄があらわれるものだが、二人の低山歩きやドライブ登山の受け止め方、受け入れ方は実に素直で可愛いのだ。
「素直さ」はすっごく大切な要素だ
二人がいきなり「北アルプスへいく」とか「富士山をめざす」とか言い出したら、僕の知らない世界だから友人夫婦にまかせるしかない。
しかし、伊万里界隈、自宅から車ですぐいける低山を選んでいることが、僕にはたまらなく嬉しいのだ。
一緒に歩きたい気持ちは山々だが、二人で計画を立てて、二人で登山口を選び、山頂での時間の過ごし方を考える様子が伝わってくるので、これもたまらない僕の喜びなのだ。
自分の喜びは他者の喜びを通して2倍にも3倍にも、いや100倍にもなるんだと、友人夫婦の低山歩きを通して感じている次第である。
いつかは終わりがきても
「いつかは終わりがくる」これはいつも頭の片隅にある。
ネガティブな感覚では決してない。
「いつか死ぬこと」を自覚するからこそ、今日の低山歩きを、歩く時間を空間を、大切にできるのだ。
いつ終わりがきても、受け入れるしかないじゃないか。
コロナがあってもなくても、(ないほうが好ましいが)その人が大切にするものは変わらないと思う。
60代から始める低山歩きには、「死」も「生」も同時に考えながら進行していくテーマなのかもしれない。
本格的な登山ではなくても「山は山」
低山歩きといえど、歩くのは山である。
そのための準備や計画は最低必要である。
まだまだ友人夫婦には伝えたいことがたくさんある。
その「たくさんある」ことが、このブログのエネルギーになってくれているので、友人夫婦の一度一度の低山歩きが僕に力を与えてくれていることを友人は気づいているのだろうか?