山歩きの始め方 活動日記

60代から始める低山歩き

ブログ名変更の理由

ブログ名を「50代から始める低山歩き」から「60代から始める低山歩き」に変えた。

30代や40代の人にすれば、「同じようなもんじゃないか」と今心の中で思っただろう!

僕も若いときは50代も60代も70代もみんな「そこそこ年寄り」でひとくくりに見てきたが。

実際自分が50代を経て、60代を半分生きてきて、それも「低山歩き」という条件の下で年齢を考えた時、50代と60代には決定的「何か」が違うのである。

その「何か」の「何か」がよくわからないのだが・・・

50代と60代の違い

以前、天拝山を40代、50代、60代(僕)で歩いた時、そのわずかな感覚の違いを感じたことがある。

40代「うわあ、また来たいね!」

50代「・・・(沈黙)」

60代(僕)「同じ山にはもう来ないよ。この3人で」

つまり、この何気ない会話には世代別の微妙な感覚的ズレがあるのです。

40代は自然に普通に「もう一度」が発せるのである。

50代は「もう一度があるのだろうか?」と疑心暗鬼世代に突入してきているのである。

60代の僕は、歩くすべての山が一期一会だと思っていたのだ。

これは、世代別の微妙な感覚的なズレ(違い)に過ぎないかもしれないが、精神面(気力)や肉体面(体力)には想像以上の違いが出てきていることに、本人たちはまだ気づいていないだけなのである。

60代や70代の元気な人と山ですれ違うよ。

84才になるSさん(山友達)は、65才から山歩きを始めて、いまだに僕なんかより登りの道では確実にかつスムーズに歩かれる。

50代でも40代でも年令は若くとも、仕事や家庭のストレスをためて、疲れ果てた人だっているだろう。

だから一概に50代、60代と大雑把な分け方はおかしいのかもしれないが、ブログのコンセプトとしては、やはり50代の諸君を対象ではなく、60代の僕たち世代に向けて発信したいと思ったのである。

60代という時代

戦後に生まれた人々が1960年の安保闘争や70年の学生運動など体験したり聞いたりしながら、ビートルズや巨人大鵬卵焼きをくぐりぬけながら、青春なんてラララララーラと歌っているうちに気づいたら60代70代になっちまってるわけで。

戦後日本の未熟さを武器にしてきた僕たちが(あ、僕自身が未熟なだけかも)半世紀を経て、60代を生きるなかにあって。

登山、山歩き、低山歩きは数ある趣味道楽のひとつにすぎないのだろうが。

人生の後半戦におけるこの趣味道楽は実に重要なものなのである。

40代50代には存在した「未来」が60代で無くなったわけではないが「いつ死んでもおかしくない」という気持ちに変化するのである。

この僕自身の勝手な60代認識がブログタイトル変更の理由である。

いつ死んでもおかしくない

自然の中に身を置くということは、「いつ何が起きてもおかしくない」状態なのである。

現実に毎年何人もの人々が(約300人)登山事故で亡くなっている。

いやいや、山に行かなくても、交通事故で死んだり、餅を喉につまらせても死ぬのである。

60代というのは、最早若くはなく、実際には孫が5人いて(僕のこと)「いつ死んでもおかしくない」世代を生きているのである。

たまたま偶然に、あるいは奇跡的に生きている、生き延びているだけかもしれないが、家でじっとしているのが好きな人もいるかもしれないが、それが無理な人もいるわけである。

そんな家でじっとしているのが苦手な60代に向けて「低山を歩こうよ!」というのが、このブログの趣旨なのである。

よってブログタイトルは「60代から始める低山歩き」とします。

50代の人たちへ

実は、この「60代から・・・」には50代の人たちへのメッセージもこめているつもりなんよ。

僕が50代でこのブログを読んだとしたら、きっと次のように思っただろう。

「60代が歩ける山だったら、50代の俺にだって歩けるかも」と。

この心理はかなり正直なところだと思う。

「60代が登った山なら・・・」「60代ができたことなら・・・」私にだって出来るかもよ・・・なんてね。

さ、低山歩きも日常も、一歩一歩前にでも横にでも斜めにでもいいから歩いていきたいということで。

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コックン

2014年12月(当時59歳)に近場の低山歩きを始めた。 これから山歩き(登山)をはじめようと思っている方や福岡県内の里山や無名山に興味関心がある方々向けて情報発信したいと考えている。 福岡県の低山・里山・無名山以外にも駅舎や神社、コミュニティーバスなども好きである。

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