最終回の前書き
検証!城ノ越山遭難事故も最終回としたい。
YAMAP活動日記で毎年9月がくるたびに、この事故のことを書いてきたのだが、今回のこのブログ記事のように細かいことは省いてしか書いてこなかった。
たかだか標高180mくらいの高さでの事故であるが、低山歩きを6年半やってきてみて、やはりこの「事故」以上に学んだ出来事はなかった。
この6年間の間に遭難関係の本を読んだり、またニュースでも近場の低山で遭難事故があり行方不明、死亡などの知らせを聞いた。
僕はたまたま生きているから、自分の感じたままを書いておきたかった。
同じような体験をされている方、これから体験をする方がいると思う。
何かひとつでも参考になることがあれば嬉しい。
事故のあと
事故の翌日、仕事(海の中道海浜公園)に行ったことだけは憶えている。
背中から腕や脚などの痛みが時間がたつにつれてひどくなったことも憶えている。
三日目くらいが最高に痛かった。
肉体的な痛みや負傷は時間とともに回復していったが、精神的なダメージ(恐怖心)はかなり強く残っていることを自覚した。
遭難事故の結果、登山山歩きをやめてゆく人も多いと聞く。
僕もわざわざ危険な山歩きなどやめて、もっと安全な趣味に変更する道もあるんじゃないかと考えた瞬間もあったが、まだ低山歩きをはじめて2年弱。
低山歩きをやめる気持ちはなかった。
やめる気持ちはなかったが、トラウマというのだろうか、新しい山へ向かうのが怖くなった。
その頃から登山関係の書物を読み漁るようになったんだと思う。
低山歩きを復活させた時(10日後の9月27日、星野村の石割岳を歩いている)登りは慎重に歩いて何の問題もなかったのだが、下山の際、転落したときのことを体がおぼえているのか、すごくぎこちなく怖かった。
しばらくは下山時の恐怖心はつづいたが、歩くことでしか克服できないと思ったことをおぼえている。
妻の記憶
当日(遭難事故の夜)のことを妻にもたずねてみた。
「あの夜のことでおぼえてることを教えて」
- 僕から「転落したという」という電話があったこと。
- そのあと、すぐに警察に電話したこと。警察から遭難があった山はどこですか?と聞かれ答えられなかったこと。(裏山に城ノ越山という名前があることも認知されていなかった)
- 東区和白に住んでいた長男に電話したこと。
- 女性(救急隊員か救急病院の看護師かは不明)から電話があったこと。
- 三男は寿司を食べビールを飲んでいたので、三男嫁の運転で病院にいったこと。(妻はペーパードライバー)
- 病院でいくら払ったかはおぼえていないこと。
- 病院に行ったのは午後9時過ぎていたこと。
- 帰宅したのは午後11時前だったこと。
ま、人の記憶なんてこんなもんだろう。
日記
当時5年日記を書いていた。
見つからなかったのが先ほど見つかったので、そのままをここに記す。
2016年9月17日(土曜日)
16時15分仕事があがりになったので17時から城ノ越山を歩いた。よく道がわからないまま山頂に着いたものの大雨。暗くなり、その上急斜面を転がり落ちた。で、レスキュー隊に救助された。
翌日の日記もついでに。
9月18日(日曜日)
朝6時出勤。トライアスロン大会。大雨なのにトライアスロンに雨は関係なかった、閉園後○○さんに巡視コースを教える。
9月21日には三日月湖の救助された場所を訪れている。
ちなみにその後トンガ師匠をはじめ数人のYAMAPで知り合った方が、転落現場界隈にいき、僕の眼鏡や帽子をさがしてくださっているが見つからないままだった。
ちなみに僕が城ノ越山を再び歩くのは年を越えて2017年1月10日香椎ルートで歩いている。
上の写真は昨日(2021.6.29)の転落現場の写真である。
昼間でも足を踏み入れる気にはなれなかった。
これで「検証!城ノ越山遭難事故」を終わります。
ありがとうございました。
※写真をおかりしたたーちゃんには感謝します。イメージ写真を無断で使わせていただいたことをお許しください。