活動日記

救急車物語

救急車が走りすぎるのを見たことがある人は多くても、救急車で運ばれた人は少ないのではないだろうか。で、僕の救急車体験を話します。まだ運ばれたことがない人には少し参考になるかなあ程度の話です。夕べお風呂に入って考えていたら、僕は5度(も)救急車のお世話になったことがあるわけです。記憶していることを書きます。

1度目は自宅でした。休日の午後だったと思います。気分が悪くて和室で横になっていました。どんどん気分が悪くなり挙句は呼吸ができなくなっていったのです。呼吸で吐くことは出来ても吸うことが出来なくなり「死ぬ!」と直感しました。台所にいた妻君に「救急車を呼んで」と言ったと思います。妻君としても救急車を呼ぶなんて初めての体験だから躊躇っていたことを記憶しています。「本当に呼ぶの?」何度も確認してきましたが、僕はもうその問いに応える余裕もなくなってきていました。最後は「呼べ!」と強い口調で怒鳴ったと思います。もうそれ以上言葉を発せないと思ったからです。妻君が電話をしていました。で、そこから救急車がわが家へ到着するまでの時間が長くて地獄のようでした。生死をさまよう感じです。やがて遠くからピポピポの音が聞こえてきました。「もっと早く来てくれ!」と心の中で思っていました。救急隊員が複数人で近づいてきたのがわかりましたが、目を開けることができない状態だったので、退院の人数や顔は憶えていません。「大丈夫ですか?」と隊員の一人が声かけてきたことははっきり憶えてる。「大丈夫じゃないから救急車を呼んだのに、なぜ最初の問いかけが大丈夫ですか?なんだ!」と心の中でツッコミたかったが、つっこむ余裕はない。どう反応したのか憶えていない。とにかく布団から抱えられ担架に乗せられストレッチャーというのかな?に乗せられ救急車に積み込まれたのは感覚としてわかった。妻君と息子たちも同乗したらしいが記憶にはない。どこの病院に運ばれたかも記憶にない。診察結果は「過呼吸発作(症候群)」と告げられた。どんな手当を処置を受けたのかも憶えてはいない。

2度目も自宅からだった。2度目のことはあまり憶えていないのだ。ただ妻君は息子たち三人を近所の友人宅に預けて、自分だけが救急車に同乗して行ったと話している。どこの病院だったかも記憶にないと言う。ただ近所の人たちが大勢表に出て心配そうに僕が運ばれるのを眺めていたことを憶えている。

3度目の記憶はかなりある。三度目ともなると妻君も付き添わなくなった。健康保健証とお金だけを渡された記憶がある。救急車の中での隊員の会話も聞こえていた。「過呼吸って女子高校生がなる症状じゃないんですか?」「俺も女子高校生が多いと聞いてる」みたいな会話が聞こえてきた。女子高校生でなくて悪かったな!お前らの知識ってそんな三流週刊誌みたいなものなのか!と心の中で思っていたが、苦しくてたまらないからじっと我慢していた。病院の場所も憶えている。救急車からおろされて、テレビドラマのように素早く照明の眩しい手術室みたいな場所に運ばれた。パジャマを着ていたんだと思うが、素早く脱がされた。下着だけにされた。その時、「今日はどんなパンツをはいていたかな?汚いパンツだったら恥ずかしいな」などと羞恥心があふれてきたことを記憶している。その出来事以来、下着だけはできるだけきれいなのをはくように(着るように)している。医師や看護師さんたちの手際のよさに僕は「モノ」となって身を任せた。最終的には点滴を打たれて約2時間寝ていたらしい。目覚めたら爽やかだった。ここは天国か!と思わせるような眩しい午後の陽射しを感じた。お金を払ってタクシーを呼んでもらって帰宅した。過呼吸で救急車のお世話になったのはこの3度で終わる。今から30年くらい前のことになる。

4度目はまったく違う症状だった。当時朝6時頃には職場にいき、早朝から頑張って仕事をして夕方はさっさと帰るというリズムで暮らしていた。夕方早めに帰るのは夕暮れまでバス釣りをするためだった。そんなある日、早朝出勤してくる後輩と二人で仕事をしていた時、突然左の胸に強烈な痛みが走った。左胸の心臓を押さえたまま床にうずくまってしまい、立ち上がれない。締め付けられるような痛みがつづく。後輩の野中が「大丈夫ですか?救急車呼びましょうか」と心配そうな顔でそばにいる。声が出ない。痛みを我慢してウウウウという声が出るだけだ。野中に「行きつけの病院にいきたい」と言った。野中に送ってもらって病院に着いた。例の過呼吸以来、九大病院の心療内科から紹介されたクリニックだった。上野先生が僕の症状を見るなりすぐ、看護師さんに即救急車を呼びなさいと指示をされた。いつもお世話になっている看護師さんが救急車に同乗して付き添ってくださった。行先は九大病院だった。一日中車椅子に乗せられて検査検査検査だった。結果は「肋間神経痛だろう」的な診断だった。

そして5度目は忘れもしない2016年9月17日、城ノ越山滑落事故である。低山歩き2年目。夕方から初めて歩く城ノ越山を十三仏坂から登り、雨に降られ、慌てて下山しようとして道は間違えたあげく、暗くなった山道で頭から転げ落ち、最終的には119番に電話をしてレスキュー隊に救助されたのだ。(このことはこのブログの城ノ越山のどこかで詳しく書いているので省略する)レスキュー隊に救助されて何人もの人に見守られながら行った先にはパトカーと救急車が赤い灯りを点滅させながら待ってくれていた。そして、れしゅキュー隊の方々にお礼を言う暇も与えられず、あっという間に救急車に乗せられた。泥まみれの衣服は脱がされた。自分で脱いだ。救急車の責任者はチャーミングな女性だった。背中の傷をスマホカメラで撮影させてくださいと言われた。そして搬送する病院に連絡して、〇〇病院に行きますと言われた。「〇〇病院は僕は嫌いだから、家まで送ってもらえませんか」と言った記憶がある。「明日早出で6時から仕事なんです」と言ったと思う。救急隊員の女性は困った様子だった。救急隊員は僕のケガがひどいことや滑落されているから検査をされたほうがよいと一生懸命に話してくれた。僕もこれ以上彼女を困らせては申し訳ないと思い「あなたの指示にしたがいます」と最後は言った。彼女はホッとした表情を浮かべて微笑んでくれた。そして〇〇病院で全身の検査からケガの処置(手術みたいな)をして夜11時頃帰宅した。

以上が5度の救急車体験です。もうこの先、できるかぎり救急車のお世話にはならないよう努めます。最近はコロナなども絡んでいるのか救急車が走る様子を見ることが多いような気がする。僕はここまでに十分に救急車隊員の方々にお世話になり迷惑をかけてきたという自覚があるので、もう救急車を自分のために呼ぶことはしないようにしたいという思いでこのブログ記事を書きました。

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コックン

2014年12月(当時59歳)に近場の低山歩きを始めた。 これから山歩き(登山)をはじめようと思っている方や福岡県内の里山や無名山に興味関心がある方々向けて情報発信したいと考えている。 福岡県の低山・里山・無名山以外にも駅舎や神社、コミュニティーバスなども好きである。

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