是枝裕和
「海街diary」(2015年)が好きで是枝裕和の新作映画「怪物」を観てきた。是枝の映画でこれまで観てきたのは「万引き家族」「そして父になる」「三度目の殺人」だけである。「これも映画だ」という感想と「これが映画だ」という二つの思いが鑑賞後の余韻である。そして観たものに考えさせる「何か」を提示しているということである。僕はいつものように呼び知識を持たず、本編を観た。観た結果、こうして感想を書いているわけだから「何か」を感じたんだろう。是枝の映画は始まって最初の5分で観客の意識を映画に誘い込む。それは「海街diary」では長澤まさみのベッドシーンと下着姿という日常的光景からはじまる。今回はビルの火事という出来事から始まる。共通するのは、1分間で映画のなかに誘われるというテクニックである。「東京ラブストーリー」の坂元裕二が脚本を担当していることも映画を観に行く小さな動機になった。
最初の「怪物」
登場人物の名前を覚えられないので女優や男優の名前で書いていく。最初はシングルマザーの安藤サクラと小5の息子が中心である。観客はタイトルの「怪物」が何かを考えながら観ていくのだが、僕はこの映画の内容に関しての事前情報がまったく無い状態で、是枝の映画だというだけでシートに座っていた。小5の息子がいじめられている気配から怪物は「学校」という入れ物なんだとまずは単純に思った。30年前から僕は「学校という場所は巨大な沈みかけた船、もしくは軍艦」だと感じていたから、是枝もそういうこの国の学校に対するアンチテーゼを提唱する映画かなと思った。特に担任役の瑛太(永山瑛太)が登場や校長役の田中裕子の不気味な雰囲気から学校職員全体、特に学校を守ろうとする管理職側を「怪物」のように強調して描いている。学校関係者はここまで見て自分に同じような感覚があることを受け止められたら、まだ救いはあるが、他人事、映画の中の出来事ととらえる感性の教員たちは既に病んでいると考えたほうがいい。
二番目の「怪物」
次に担任役瑛太を中心に物語が進むと、恋人役に高畑充希などがでてきて、僕は単純に喜ぶ。で、瑛太がまともな新任教師であることがわかるにつれて瑛太をとりまく学校が「怪物」と感じるように映画は仕組まれはじめる。僕には「教育」が怪物なんだと新しい認識が芽生える。昭和30年に生まれて戦後教育という平和憲法の下での教育を受けてきた僕は、基本現教育肯定派である。しかし、一方、戦後GHQによって日本人を支配コントロールするためのさまざまな手段がなされてきたことは薄々知っていた。給食の「パンと牛乳」「道徳教育」「体育の内容」などいわゆる指導要領と呼ばれるものを使って、まず教職員の思想や思考をコントロールしてきたこと。この怪物性に現場にいる教師に気づけと言ってもかなり無理がある。「教育労働者」になることによってとりあえず「安定した生活」を掴んだ気になった教員に自己否定は難しい。教育現場に感覚感性が合わずに離れた人間には学校、教育、教育労働者の「怪物性」がわかっていたかもしれない。
三つ目の「怪物」
これが是枝や坂元が提起したかったものだろう。しかし、そこには明確な答えはなく、観る側が個々に考え、気づくように仕組まれていた。僕は最初、子どもたち、集団(群れ)のなかにも怪物がいると感じていたが、その思考はやがて人間、そして自分へと変化していく。「怪物」は自分の中、人間ひとりひとりの中に棲んでいるいると感じるようになる。たしかに戦争をしているのは人間たちだ。猪や鹿たちではない。差別をしているのも人間だ。雀や烏たちの間にも小さな差別があるかもしれないが、明確な差別を経済のために政治のためにするのは人間の特徴だ。小5二人の少年は見えないジェンダー観や社会差別がもたらした子ども社会へのストレスをあびながらもより純粋に生きていこうとする。三つ目の怪物はいつのまにか人間がこれが正しいと思って取り込んできた考え(思想、偏見、愛情など)や感情なんだと映画は世に問うわけである。
まとめ
映画監督として、脚本家として、「今の日本、日本人のおかしさ」を「怪物」というタイトルにして公開する。まじめな映画であった。ひとつの事象には必ず裏側があることも、この映画は巧みに描いている。その構成力が是枝の映画監督としての才能なんだと感じた。僕たちが目で見て、感じているものは本質の一面に過ぎない、一部に過ぎないということを僕は強く感じた。一つの事象には背面、側面、正面などがある。自分のなかに「怪物」はいる、しかし「天使」も同時に棲んでいる。とって次の是枝映画は「天使」というタイトルで作ってほしい。