父山田比古太の個展が今月末から楠久銀行跡の建物で開催される。それにあたって山田比古太の略歴みたいなのをまとめてほしいと依頼されたのだが、はっきり言って詳しく知らないし憶えてもいない。とにかくわかる範囲でまとめることとする。
1929年2月5日 父山田清吉と母山田津奈の間に次男として、満州国大連市(霞ヶ町?)で誕まれる。
少年時代は、化石や昆虫や貝殻を集めることに熱中する。また父清吉とともに支那人の骨董市場に度々出かけて清吉の買った骨董品の荷物持ちをいていたそうである、後年の骨董集め等にはこの頃の体験が基になっていると思われる。
小学校、中学校の校名不明。(学生服の写真は多く残っている)
1941年12月、大東亜戦争始まる。比古太16才。学徒動員の日々を過ごした模様。(詳しくわからない)
1945年8月、終戦。引き揚げるまでの2年間はロシアからの進軍に怯えた日々だった模様。
1947年3月31日。佐世保港に着く。母津奈の兄吉武幾雄を頼って楠久津90番地に居候生活を始める。
1947年9月26日、7才上の長男山田又衛、肺結核のため死去。又衛が外科医だったため家族としては又衛に頼るつもりだったのが大きく計画が狂う。
※食うためと年老いた両親を養うため(楠久)炭鉱で働いたらしい。その炭鉱仲間の一人に絵を描く趣味の人がいたと聞いている。その人と休日にスケッチに出かけたのが「絵を描く」きっかけになったと聞いている。それらの絵は残っている。
1954年、永田千鶴子と結婚。
1955年、長男清比古、生まれる。
1962年、父清吉死去。
1964年、佐賀県展に出品。県知事賞受賞。
1965年、県知事賞受賞。
1966年ころから独立美術展、西日本美術展などに出展。
1972年9月、田中角栄により日中国交正常化。
1976年、会社を辞め、絵を描いて生きることを決める。絵では食っていけず、息子の学費を稼ぐために建築物の外観図などを描き収入を得る。
1977年、アトリエをもつ。この頃から絵が描けなくなり、彫塑、木像、焼き物などをする。また香月康男の影響でブリキオモチャなども作り始める。
1980年、中国大連市に里帰り。
1981年~1983年、「大連シリーズ」を描き続ける。
1980年代、山口県長門市三隅の香月康男宅を数回訪ねる。
1990年代、熊谷守一の絵画に影響を受けたものに変化する。
2002年、胃がんが見つかり摘出手術。退院後、蝶シリーズを描く。
2003年2月13日、永眠。